こんにちは。瀬尾裕樹子です。
今週は神戸で、UNISG(イタリアの食科学大学)のスプリングスクールに参加していて、毎日ものすごい情報量と闘っています。
UNISGでは、それぞれに様々な視点から「食」に焦点を当てて学んでいくのですが、スプリングスクールでも一週間という短い時間の中でその代表的な授業が受けられます。
先日は「食の法律」について書きましたが、今日は哲学のPerullo先生に学んだ「おいしい」について書きたいと思います。
パッと聞いたとき、「ん?食と哲学?」と思う方も少なくないでしょう。
強いイタリア語訛りの英語でしかも難解な哲学を語るPerullo先生の授業は、それはそれは難しく、実際にUNISGに通っていた先輩方もちんぷんかんぷんだったと言っていたり。
ざっくり言えば、“おいしい”という体験はどこから来るのか、ということを哲学的に学んでいく授業でした。
そのおいしさはどこから来るのか?
わたしがかろうじて聞き取れて理解できたPerullo先生のおっしゃっていた話の中で、とても印象的だった言葉があります。
“おいしさ”は個人の脳の中で発現するものであって、そこにあるもの、ではない。誰の脳の中にも発現しないおいしさは無いのと等しい。
小さい子供が好きなものとして、例えば、「ハンバーグっておいしいよね」みたいな話があると思うのですが、そこで思い浮かぶ「ハンバーグ」はそれぞれの家庭で食べられている別のハンバーグだったりするわけで、同じ種類の食べものに対して最大公約数的な“おいしい”を共有しているけれど、その体験を構成する要素はそれぞれに違っていたりするわけです。
一緒にお兄ちゃんと食べる体験かもしれないし、ジュウジュウとフライパンで焼く音や匂いかもしれない。ただ単にその子はひき肉料理全般が好きなのかもしれない。
だから、多くの子供が好きなハンバーグですら、“おいしさ”は彼らの脳の中それぞれにあるもので、ハンバーグそのものがおいしいわけではないのです。
おいしさを構成する4つの要素
食品科学の権威である伏木亨先生は、2003年の栄養学雑誌に寄稿した「おいしさの構成要素とメカニズム」という論文の中で“おいしさ”を構成する要素を以下の4つに整理している。
(1) 人間 には生理的な状態に基づく欲求があり,それに合致する食品はおいしく感じる。
(2) 文化 に合致したおいしさ。人 間や民族 の文化の 上 に発展 して きた食の歴 史と嗜好に合致するもの に は,安 心 感が得られる。これが,おいしさとな る。
(3) 情報 がリードするおいしさ。人間に特有のお い しさであ るが,安 全 や美味 な どの情報 が,脳 内で の味覚 の処理 に強 い影響を及ぼす場合。
(4) 偶然 に発 見 され た食材 に よる,薬 理学 的なおい しさ刺激。上 記 に当てはまらないが,栄 養素の有 無とは関係なくおい しい もの,例 えば香辛料 やファストフードの味付けなどは,このような表現 が妥当である。
一点、思うのは、“おいしさ”の構成要素が上記の4つに整理されるとしても、4つそれぞれを全て満たすことが必須条件ではないし、それぞれの絡み合い方もケースバイケースということ。
どんなにカラダに悪いと言われていても(3の情報)おいしいものはおいしいし、どんなに環境にいいからと言われても、おいしくないものはおいしくないからです。
これまでになんどもそんな体験をしてきたこともあり、Perullo先生の授業を受けたとき、最初は素直に理解できませんでした。
でも確かに、情報によっておいしく感じるかどうかが左右されやすい人もいるし、わたしだってそういう状況になることもある。(2)の文化に合致したおいしさも、ほかの国や地域の人々がおいしいおいしいと食べているものがあまりおいしく感じないなんてことはよくあります。
おいしさは感じるのではなく、感じたときに現れるもの
そんなとき、例えばわたしがおいしいと思うものをおいしく感じない人が目の前にいるとき、別に相手はおいしさを感じる能力が低いわけではないのです。
おいしいさはもともとモノに宿っているのではなく、食べて感じたときにはじめて人の脳に宿るものだから。
少しずつPerullo先生の授業をあらためて振り返りつつ考えてみると、滋味深くじわじわと面白さが増してきた今日このごろ。
わたしが感じるおいしさは、どこから来るのか、おいしいってなんなのか。
日々向き合っていきたいと思います。
瀬尾裕樹子