ぱっと見、全く意味不明なタイトル、ごめんなさいw
今朝、八丁堀を歩いてて見つけた、紅い実♡
世の中はサクランボの季節です。
これね、上も下も首都高に挟まれる、京橋と八丁堀の間の橋の端っこに植わっているの。排気ガスまみれで食べる気はしなかったけど、可愛くて和んだのでパチリ。近くにいたおねーさん、食べてたけど。一般道の街路樹として、食用のサクランボが植わっているなんて珍しい。
そんな気分のよい今日のランチは八丁堀のお米屋さんのごはん。
米吉さん。
お弁当も炊きたてのごはんを入れてくれます。
あまりの人気ぶりに遅お昼に行くとだいたい売り切れ。
今日は御菜はおうちから持ってきたので、ごはんだけ買いました。
今日は白米か7分づき米から選べて、普通盛り200円。小盛りで100円。大盛りはなぜか普通盛りと同じ200円。
ごはんが美味しいのです。
脳に届く唯一の栄養は糖質。
“文は文屋へ”
今日の午後は元編集者の先生の文章を書く講座で、いっぱいいっぱい文章トレーニングを積んだので、お昼に食べた美味しいお米が効きました。
さて、文章を書くということですが、最近、BlogにWebマガジンにと、つたない文章を勝手に繰り広げている私。文章力は大切です。
今日は1200〜1500文字くらいの文章を600字詰めの原稿用紙に要約するという作業×3本でした( ;´Д`)
いや〜、疲れた。学生のころから比較的要約は苦手ではない気がしていたのですが、それにしても文章を書くということは想像以上に脳を使うものです。これが要約となると、自分が書いた文章でないものを、読み込み、想像することが求められる。頭フル回転です。
お昼に美味しいお米を食べて本当によかった(笑)
ここで要約した文章を書くのは長いのでナンセンスなのですが、私が要約で気をつけている点についていくつか。
◯一つの文に注目し、そこで一番言いたいことを見極める
一つの言いたいことが一つの文に盛り込まれているとは限らないけれど、一つ一つに注目して地道に見極めて行くと、もしかしたら、隣の文と同じことを言っているということに気づく。この場合は二つの文章にまたがって一つのことを言っているということが分かるわけですな。
“向こうにいる女の子は私の可愛い妹です。”
という文なら、ここで言いたいのは
「向こうにいる女の子」が「可愛い」ということなのか、「私の妹だ」ということなのか?
もちろん、一番言いたいことは「私の妹だ」ということでしょう。
そして、妹と言っている限り女であることが想像できるので、主語は「向こうにいる子」でも良いかもしれないし、前後の表現によっては「あの子」や「彼女」で済むかもしれない。
こんな地道作業をひたすらひたすら繰り返すのです。これを繰り返した後に、制約文字数の8割くらいが埋まる長さになるのが理想。
◯文章をジブンゴト化する
至ってシンプルな、簡潔な文章にした後はめくるめく(かどうかはわからないけどw)イマジネーションの世界。
簡潔すぎる文章は面白みがないものです。
無駄をそぎ落とし、制約の8割程度の大きさにした文章と元の文章をじっくり読み比べながら、自分だったら?とひたすら主観と客観の間を行ったり来たり。
とにかく、読み込んでいくわけですな。
おそらく、一つ目の作業はトレーニングをしたら文章の内容をたいして理解せずともできる。
でも、ストンと腑に落ちる、簡潔なだけでない文章を書くには、やっぱり読み込まないと。
ジブンゴトとして捉え、自分の言葉として表現できたとき、制約された文字数の中に、オリジナルを超越できるのではないか?という希望さえ観えてくるのだと、思うわけです。(←実に個人的な希望的観測。)
まぁ、そのための2割なのですな。
残した2割でどう無駄を表現するか?
もしかしたら、全体の長さやその文章の内容、要約した意図によってはこの無駄が3割にも1割にもなるかもしれない。
でも、残りの無駄を膨らませることができるスペースは、ジブンゴト化した文章のどこに重きを置いて表現したいか?という部分だと思うのです。
よく、”神は細部に宿る”と言いますが、
この、”無駄にこそ宿る”と私は信じて止まない。(←言い過ぎ?w)
◯この二つの作業を同時進行で行う
おそらく、優れた編集さんなんかはこの二つの作業を同時進行で行えることでしょう。(←私はムリ)
だって、制約文字数よりも減らしたところに加えまた肉付けするようなもんだからね、とにかくめんどくさい。
まぁ、今はpcで全て作業するので消したり書いたり移動したり、楽ちんですが、そうは言っても、ある程度は同時にやっているでしょうな。紙の時代に比べ多くのライターさんを抱えるようになってしまった編集さん。多忙ですからね。
ま、ここら辺はかなりムズイ部分ではありますね。少なくとも私には中々…( ;´Д`)
私も無駄をそぎ落とす作業は我ながら少しずつ成長があるものの、二つ目の作業はいたって苦手。(三つ目なんてもはや…。)
この二つ目三つ目の作業はジブンゴト化した文章に無駄なんだけど欲しい部分を付け加える作業であり、無駄力の結晶なわけであると私は思うのです。
すなわち、人生の無駄な時間、無駄なモノ・コト、が生きる作業であると願って止みません。
そうでなければ私の人生の大半を過ごした無駄な時間は報われないw
言い換えると、今日の講座の教訓は“人生の神は無駄なコトにこそ宿る”。
と信じて今日もやっぱり無駄な時間を過ごす私。
首都高に上下挟まれて排気ガスまみれのサクランボにも、いつかきっと、神がやどりますよーに。
最後まで読んでいただきありがとうございました!!